鐘小石先生の中国語講座
情報更新は2003年4月2日



中国語(北京語)、北京弁、及びその他    

                               
中国語について

 中国語には呼び名が幾つ有るかご存じですかと聞かれたら、おそらくお宅は「えっ、一つだけじゃないの」とお答えになるでしょう。結論はノーです。中国語の呼び名は七つもあります。一に「中国話」、二に「普通話」、三に「中文」、四に「漢語」、五に「国語」、六に「華語」、七に「北京話」、八に「マンダリン」、なのです。ほら、ちゃんと七つあるでしょう。もっとあるかもしれません。わたしの知っているだけでもこれぐらいあるのです。 それぞれどう違うかとなると、ゆっくり説明させていただきましょう。

 一に「中国話」は外国語に対する言い方で、例えば「中国話」、「日本話」、「俄国話」、「英国話」、等等があります。二に「普通話」は中国国内における中国人同士の呼び名で、方言(例えば「上海話」、「広州話」、「四川話」等)と区別します。「普通話」は「北京話」(北京弁)を基礎にして全国共通で使用する言語です。日本で言う北京語は「北京話」(北京弁)ではなく「普通話」のことです。「北京話」(北京弁)と「普通話」との関係はちょうど日本の東京弁と標準語との関係に似ています。三に「中文」は狭義的に中国語の文章、文字を指しますが、広義的には中国語全般を指します。例えば、「写中文」と言っても良いし「説中文」と言ってもかまいません。四に「漢語」は漢民族の言語という意味で、少数民族の言葉に対する言い方です。中国の人口の九十四パーセントは漢民族といわれていますから漢民族の言語は中国語といっても良いでしょう。五に「国語」は台湾的な言い方です。香港や華僑(国籍は中国だけど外国に永住権を持っている人々を指す)の間で広く使われていますが、中国大陸ではこの呼び名を避けた方が賢明だと思います。

 何故ならば中国人同士の対立に巻き込まないようにするためです。六に「華語」は中国系外国人的な言い方であり、狭義的には中国人の血が流れているけれども国籍が外国である人々を「華人」と称しますが、広義的には先祖が中国人なら「華人」に入ります。「華語」は「華人」が使っている「中国語」のことです。七に「北京話」(北京弁)は厳密に言えば方言の一種です。「北京話」には巻舌音があまりにも多く地域的な言い方も有ります。巻舌音は北京語圏以外の人々(特に南方人)にとって至難の業です。巻舌音を極力減らし、地域的な言い方を除外して、出来たのがこの「普通話」です。しかし、あくまでも「北京話」(北京弁)は「普通話」の母体ですから「北京話」(北京弁)を中国語と言っても異議がないだろうと思います。                              

広東語について

 はっきり言っていわゆる広東語は存在しません。世間一般の言う広東語は実は広州方言のことです。つまるところ、「広州話」のことです。広州は広東省の省都であり、「広州話」は広東省内で広く使われています。香港・マカオで使っている言葉も「広州話」ですから「広州話」を広東語と言っても文句言えないねと思っています。

北京語と広東語について

 広東語はまるで外国語のようだと中国人にもよく言われています。「天不pa,地不pa,就pa広東人講普通話」(これは「順口溜」であり、直訳は「天をも恐れず地をも恐れず、だが、広東人が普通話をしゃべるだけが怖い」となる。つまり、広東人の訛は酷いものだということ)確かに全然習っていなかったら、そう見えますが、勉強してみれば北京語とのつながりが結構多いと気づくだろうと思います。もう一つ大事なことは北京語と広東語の文法は同じで発音が違うだけということです。北京語が出来る人は広東語を勉強すれば半分楽になります。なぜなら文法を勉強する必要がありませんから。広東語から北京語への場合も同じです。

 以上は中国語の豆知識ですがこれだけでも中国語はどれほど奥深いかお分かりいただけるでしょうか。
(2002.8.25初稿)


中国語の命    
                                
  中国語には命は二つあります。

  第一の命は、「声調」です。「声調」には四声があって油断すると地獄を見ることに成るのです。例えば、「女馬」(ma一声):お母さん、「麻」(ma二声):麻(あさ)、「馬」(ma三声):馬(うま)、「罵」(ma四声):罵ると言う四つの言葉は発音が同じですけれども声調が同じではありません。もし「一声」の「女馬」を「三声」の「馬」に読んだらお母さんは馬に即座変身!(孫悟空も真っ青!!)また、「四」(si四声)、「死」(si三声)は発音が同じですけれども声調が同じではありません。もしうっかりして「四人」の「四声」を「三声」にしてしまったら一瞬にして「四人」は「死人」に化する事になるのです。(なんと見るに堪えない無惨な光景だろう、しかも、四人ともだ!!!)ですから、「声調」は命です。間違えると命取りになるのです。くれぐれご注意を!

  日本語が平らで声調がないと言われていますから声調は日本の方々にとって難関だと言えるでしょう。これでコツを一つ披露させていただきましょう、参考になれば幸いですが。 「一声」は音階の「ソ」の高さに合わせること。「二声」は「ええ、嘘でしょう」の「ええ」の調子で発音すること。「三声」は音階の「ド」の低さに合わせること。「四声」は「そうだ」の「そう」のように力強く発音すること。中国語が分かりませんが音階と日本語が分かるはずです。その真似さえすれば一挙に難関突破できることをお約束いたします。信じなければ試すが良い。

  第二の命は、「語順」です。「語順」には決まりがあって油断すると地獄そのものになるのです。例えば、「中国人が日本に来る」:「中国人来日本」日本語文の語順を「日本に中国人が来る」に入れ替えても構いませんが中国語はそうはいかないのです。もし中国語文の語順を「日本来中国人」と変えれば「日本が中国人に来る」と言う意味に成ってしまったからです。ですから、「語順」は命です。間違えると命取りになるのです。くれぐれご注意を!!

 最後にあえて一つ忠告をさせていただきたいのですが中国語を身につけようとすれば先ず何が何でもこの二つの命を先に手に入れておくことです。さもなければたとえすらすらと喋れるとしても長い文が話せるとしても単なる騒音のような単語の羅列に過ぎないからです。


時間!時間!!時間!!!    
                                
  一日は二十四時間ちょうどだ。一秒も多くなければ一秒も少なくない。億万長者だから増えることもないし乞食だからと言って減るわけでもない。なのに、人生にはこんなに開きがあるとは一体なぜでしょう。 原因はいろいろあるが根本的な原因は時間の使い方だと思う。青空ホテルの宿泊客にとって時間は使うものではなく流れるものにすぎない。だが、しかし、億万長者たるものは自分の時間を大事に使うばかりでなく人の時間までこき使っている。 語学は時間のかかるものだ。拙文「語学の近道」には「暗誦」の重要性を訴えている。暗誦は大量の時間を必要とする。しかし、それはすべての始まりに過ぎない。発音の練習、矯正、熟練、文法の分析、理解、組み立て、単語の意味、記憶、使用、そして作文、本番の日常会話・・・、更に時間を食う。

 「一日、二十四時間もあるから思う存分遊ぼうじゃないか」と思う人もいれば「一日、二十四時間しかないから大事にしなくちゃ」と思う人もいる。これは人生の分かれ目だ。 「忙しい。時間がない。」というのを耳にすると多少憂鬱になる。北京への到着時刻は遠のくからだ。確かに、この世は忙しい。

 だが、時間がないほどでもない。時間は作るものだ(「時間を捻出する」と言う言い方もあるらしい)。例えば、通勤時間を利用する。昔は電車の中でうとうとしながら音楽を聴いた。今は違う。うとうとしながら語学の録音を聴き流す。それで、簡単に二、三時間が作れる。待ち合わせの場合、約束の時間になっても友達がまだ来ていない。昔は時計を見ながらまだか、まだかといらいらした。今は違う。単語帳を出してゆっくりと読む。これで、また五分、十分は簡単に作れる。家事などをするときに北京語の歌をがんがん流す。意味は分からなくても雰囲気が身に付く。歩きながら目の前の情景を北京語で描写してみる。文が出来なければ単語でも良い。「木」とか「花」とか「人」とか。「私は歩く。」となったら一歩前進だ。

  「私は歩きながら北京語を勉強する。」と言えればしめたものだ。テレビも一番好きな番組しか見ないことにする。見ても見なくても良い番組はしばらく我慢して北京語が出来てからにしようと決意を固める。これだけでも一日はまとまった時間を一時間作れる・・・。時間を作る気さえあれば時間は出てくるに違いない。肝心なのは時間を作る心構えだ。すべてはそこにかかっていると言っても過言ではない。 確かに、時間を作ることはつらいことだが、北京語が出来たらどんな楽しいことがあるかを思い浮かべながら勉強すればそのつらさは半減する。毎日勉強が終わったら「私は前より上達したぞ」と確認できれば残りの半分も消える。つまり、つらさはゼロに成るわけだ。

  「恋しい道は千里も一里」はこう言うことかもしれない。ある生徒さんの実話を紹介しよう。最初は趣味で勉強したが(一日、二十四時間しかないから大事にしなくちゃと思う人だから上達がかなり速い。)思いがけないことに、転職したとき、自分は北京語が出来、ライバルは出来ないと言うことだけで差がついて望ましい仕事に就くことが出来た。「時は金なり」はこういうことではないかと私は何時も思っている。

 最後に、忠告を一つ。言い方はきついと思われるかもしれないが言い換えるつもりはない。丁寧に言っても結果は変わらないからだ。むしろ、こっちは「忠告」らしい。 「時間がないのを口にする者は語学をするべからず」と言うことだ。間違いなく、お先真っ暗だからだ。                                 
                     
  (2002年11月18日)

語学の原動力    
                                
  人間は何をするにせよ、動機が必要だ。しかも、動機が明確なほど意欲が高い。言い換えれば動機を明確にすれば原動力になる。語学も例外ではない。一見単純明快のように見えるが気付いている人が少ない(1.らしい2.ようだ)。
 
  語学の動機と言えば大別すると二種類あると思う。
 
  その一は「必要」である。生活においても仕事においても必要があればいやでも勉強せざるを得ない。この人たちにとって語学は苦痛だ。全然興味がないのに色々なものを覚えなければならないからだ。プレッシャーがあるから一所懸命勉強はしているが頭に入らないのは現状だ。

  どうやって効果的な勉強ができるだろう。どうやって苦痛を楽しさに変えることが出来るだろう。

  先ず「役に立つ」ことを実感させることが肝要だと思う。先ず簡単で実用的な文から勉強し始めるべきだ。つまり、必要最小限の文型、必要最小限の単語から始めるべきだ。たとえば、「誰が何をする」のは一番簡単な文型で、先ずこれを身につけること。中国語となると「誰が、する、何を」となる。厳密に言うと「主語、動作(述語)、対象(目的語)」と言う語順になる。そして、必要な単語を当てはめれば立派な中国語になる。たとえば、「私は服を買う」は「私は(我)、買う(買)、服を(衣服)」となり、「私は部屋を予約する」ならば「私は(我)、予約する(訂)、部屋(房間)」となり「私は会社に行く」は「私は(我)、行く(去)、会社に(公司)」となる。覚えてから実際使ってみること。

  通じれば自信がつく。自信がついたらやる気が湧いてくる。そうなると、万々歳だ。「役に立った」からだ。苦痛は苦痛じゃなくて楽しさに変わるに違いない。一番簡単な文型が身に付いたら少し複雑な文型に挑戦しようじゃないかと自然に思うものだ。そうしたら「誰が、何時、何処で、する、何を」と言う文型を覚えたらいい。たとえば、「私は日曜日百貨店で服を買う」と言う文は「私は(我)、日曜日(星期天)、百貨店で(在百貨公司)、買う(買)、服を(衣服)」となる。これが出来たら、また「たい」とか、「の」とか「から」とか「まで」とかなどを勉強すればもっともっと自分の言いたいこと(1.を2.が)言えるようになる。達成感を味わうことが出来れば、苦痛どころ、楽しくて、楽しくてしようがないのだ。
 
  実例を一つ挙げよう。ある中国担当のビジネスマンの話だが。彼は仕事でしょっちゅう中国へ行く。最初、コミュニケーションは良くなかったのでトラブル続出。すると、彼は中国語を勉強する決意を固めた。しかし彼は語学のセンスが全然ない方で、本文朗読一つだけでも汗だらだら垂れる始末だった。いろいろ考えた末、私は通常の教科書を止めて以上の方法で教えることにした。彼は必要とする内容を日本語で書いて私は彼のレベルにあわせて実用文を編集する。たとえば、「私はお湯が欲しい」とか「私は勘定する」とか「伝言があるか」など。それでホテル生活に大分助かった(1.らしい2.ようだ)。

  仕事の面ではキーワードと簡単な文型に手振り、身振りを加えて十分とは言えないがミスは随分減ったという。ちょっと余裕が出来たら(1.今度2.今回)は宴会で「あなたはお金持ちですね」「あなたはお酒(1.が2.に)強いですね」などとジョークを飛ばす。お陰で、お互いに親近感を持つようになり仕事上の摩擦をも和らげることが出来た。こんな風に勉強していくうちにいつの間にか汗もかかなくなった。最後の授業の時に彼は私にありがとうと言ってくれた。その瞬間、私はやったと思った。出来そうもない者は出来るようになったからだ。

 その二は「趣味」である。好きだから勉強は楽しく成りやすいし興味があるから覚えが速いのは確かだがプレッシャーがないからだらだらする傾向も否定できない。結局、せっかくの「覚えが速い」のを生かすことが出来なくて効果が芳しくないことはしばしばある(1.もの、2.の、3.こと)だ。だから、趣味で語学を始めた方にとって先ず「覚える意識」を持つことは肝要だと思う。実例を二つ挙げて説明しよう。「香港が好きだから広東語の勉強を始めた」と言う二人の香港ファンの話だが。一人はゼロからのスタート、もう一人は学校を転々して10年目に入るという。二人ともほぼ同時にプライベートレッスンで私の生徒になった。1年後、学校のパーティで1年目の方は延々と5分間も広東語で自己紹介をしたが10年目の方は1分も経たないうちにさっさとうち切った。同じく私の生徒なのになぜこんなに差が大きいだろう。1年目の方は夜1時まで勉強したのに対して10年目の方は教室を出たらほとんど何も覚えないからだ。そして、10年目の方はドダキャンをして、そのまま学校を去った。これは私の失敗だ。手ぶらで(1.帰らせた2.帰した)からだ。私は頭を(1.抱えて2.抱えながら)しばし思案に(1.暮れた2.余った)。このような生徒をどう教えたらいいかと。しかし、結論(1.が2.を)得られなかった。今になっても名案は浮かんでこない。覚えるのは先生の仕事ではなく生徒の仕事だからだ。お手伝いする気持ちは山々だけど覚えてあげることは到底無理な相談なのだ。そして、趣味で語学をしている方に一言言いたい。

 「マイペースでやるのは大いに結構だが趣味だから覚えなくても良いと思うのはあまりにも虫が良すぎるのだ」と。
 
                         (2003年1月15日)

 語学の近道    

 話せるのが語学の主要目的の一つです。それではどうやって話せるようになれるかというと四段階を経なければならないと思います。

 その一、人の言葉で話すこと。詰まるところ、本文と例文を暗誦すると言うことです。暗誦できれば一応話せることになります。たとえオウム返しであっても話せることが変わりません。これは、第一段階であります。 

 その一、自分の言葉で話すこと。詰まるところ、習った単語と文法で文を書いて暗誦すると言うことです。例えば「我是日本人」は例文(人の言葉)だとする。「・・・是・・・」と言う文型で「王先生是中国人」とか「他是美国人」等々に書き直せば自分の言葉になります。自分の書いた言葉だからと言って覚えられるとは限らないから自分の書いた言葉を暗誦しなければなりません。暗誦できれば自分の言葉で話せることになる訳であります。これは、第二段階であります。

 その一、考えながら話すこと。詰まるところ、第二段階の二つの仕事(書く、暗誦する)を一本化して頭で考え口から言うと言うことです。これは、第三段階であります。

 その一、考えずに話すこと。詰まるところ、長い第三段階を経てある日目を覚ますと突然あれ、俺が考えなくても何もかも話せたじゃんと気がつく訳です。これは、第四段階であります。

 一、二段階がなければ三、四段階もありません。一、二段階のポイントは暗誦であります。覚えなければ話せないのが自明のことで「暗誦する」事は「覚える」事であるのも言うまでもありません。暗誦して行く内には単語も覚えられるし文法の構造にも慣れてくるからまさに一石二鳥そのものであります。

 中国の故指導者ケ小平先生は「中国の問題は、一に経済、二に経済、三と四がない。五と六はまたしても経済」と指摘しています。

 私は「語学の問題は、一に暗誦、二に暗誦、三と四がない。五と六はまたしても暗誦」と申し上げます。

 暗誦こそ、語学の近道なのであります。



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