中日文化の掛け橋−鑑真和上
情報更新は:2001年9月14日


S.Nagahara





紀元754年(天平勝宝6年)鑑真和上は、日本にやっと着ました。大陸で盛んでいる仏教は、やっと日本と関係が繋ぎました。天平の昔、二人の日本留学僧は揚州をたずね、鑑真のもとに来て、伏してお願いしました、「仏法は東流して、日本国に至りましたが、法はあっても真髄を伝える人がいません。どうか日本に渡り、教え導いてください」すると、鑑真は言った、「昔、日本には、仏法の興隆につくした王子(聖徳太子)がおられたことを聞いています。日本こそ仏法の栄える国です。われらの中から誰か日本国に行って、法を伝える者はいないのか」弟子たちは黙したままです。鑑真は、「仏法のためだ。どうして身命を惜しむのか。誰も行くものがなければ、私が行こう」と言った。こうして鑑真が日本への渡航を決意したのが、五十五歳の時でした。そして妨害、難破、漂流といった五度の挫折の末、盲目の身となりながら、ついに日本の土を踏むことができました。それは願を発してから、十一年がたった六十六歳の時(753年)のことです。鑑真は、僧としての守るべき戒律をさずける大使として日本に招かれました。鑑真その人も、悟りすました人ではありません。激しく怒り、悲しみ、時には熱い涙をながす情動の人でした。弟子たちがひそかに渡航準備をしていた時、霊祐という弟子が、師の健康を案じて密告したので官吏に知られ、計画は挫折。その時、鑑真はきびしく弟子を叱ります。霊祐は悔いてわびますが、鑑真は会おうとしません。夜の八時から朝の四時まで立ったまま、罪をわびること六十日にして、やっと許してもらえました。天の使命をはばむ者に対する激しい怒りです。また、愛弟子の祥彦が死を前にして、「和上はお目覚めだろうか。お別れをしたい」と言う。鑑真が香をたく中、祥彦は一声、仏を唱えて息絶えます。その時、鑑真は、「彦よ!彦よ!」と幾度も名をよびながら慟哭しました。労苦をともにし、生死をかけて誓いあった師弟の愛に心うたれます。鑑真が住んでいた奈良の唐招提寺には、当時の面影をのこす戒壇が今もある。僧としての名声を博した鑑真が、五十五歳にもなった身で言葉の通じない異国に行き、そこに骨を埋める決心をするというのは、よほどのことである。



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